法吉のことを教えるよ! その2 ~法吉の歴史から分かった! 実は法吉小は......~
ほっきたろうから夏休みの自由研究が届きました。
題
法吉のことを教えるよ! その2
~法吉の歴史から分かった! 実は法吉小は......~
令和6年8月 法吉小学校 ほっき たろう
研究した理由
その時、実は法吉小は昔の法吉小(旧法吉小)と北堀小が一緒になってできた城北小から分かれてできた学校ということが分かりました。


法吉小は1回なくなって、またできた学校だったことにびっくりしました。
だから昔の法吉小(旧法吉小)のことを調べてみようと思いました。
調べたいこと
①昔の法吉小(旧法吉小)はどこにあったの?
②昔の法吉小(旧法吉小)はどんな学校だったの?
調べる方法
①昔の法吉小(旧法吉小)のことが書いてある本を探して調べる🔍
☞ほうきどり図書館に法吉のリーフレットがあった!
☞先生にも本があるか聞いてみよう!
②昔の法吉小(旧法吉小)のことを知っている人に聞く👂
☞お盆に里帰りしてくる去年たくさんヒントをくれた親戚のおばさんに聞こう!
調べてみた
ほうきどり図書館のリーフレットを見てみました。
早速分かりました!


今(比津)とは違って、春日にあったそうです。


火事で燃えてしまったこともあったそうです......
※火災発生の日は資料によって相違があります。
先生に去年見せてもらった昔の法吉小(旧法吉小)のことが書いてある本を見せてもらいました。


この本は昔の法吉小(旧法吉小)の統合先の城北小学校で大切に保存されていたそうです。
今回特別に見せてもらいましたが......
......
......
......
???
判らない字がたくさん......
判っても読めない字がたくさん......


読むのはとても大変でしたが何とかまとめることができました。
旧法吉小沿革誌抜粋.pdf!!!
この本の最後に、昔の法吉小(旧法吉小)の校舎の図面が綴じてありました。
旧法吉小学校々舎略図.pdf昭和21年8月の火事の後、法吉村と松江市との合併(昭和23年10月10日)目前の昭和23年3月29日にこの新しい校舎が建てられた時は、昔の法吉っ子や法吉村の皆さんがとても喜んでお祝いしたそうです。
昭和23年3月29日
一年有月の仮校舎を一凍の名残の念をもって後に、新校舎へ移転 落成式を挙行す
総工費百二十万 本村としてはまことに過大な負担の下に村長の総力結集なる
普通教室六 教官室 宿直 使丁室の最小限に切りつめた建築ながら、
法吉村興隆の原湶地として溌らつたる気はくは、当日此地にみちみちたり
校舎の図面をよく見ると、校舎が増築、改築されたり、講堂や体育館ができたり、校庭が広くなったりしたことが書き加えてあります。
道を挟んだ校庭の手前側に法吉公民館や法吉保育所があったことも分かります。
昭和17年に校庭ができた時の広さは、1,000坪。
これは今の法吉小の校庭の約3分の1の広さだそうです。
別の本には......






!!!
火事でなくなる前の校舎の平面図が載っていました。


廊下で法吉村役場とつながっていたそうです。
この場所(春日)には、明治25年に黒田から移ったそうです。


!!!
昔の法吉っ子もぼくたちと同じように坂を登って登校していたようです。
「だから学校に行くことを登校っていうんだよ。」
と、さっき横浜から里帰りしてきたばかりの親戚のおばさんが教えてくれました。
「学校から帰る時は何て言うの?」
「下校...... !💡!✨
坂を下って帰るから下校っていうのか!」
(※「登下校」の語源には諸説あります。)
昔の法吉の事が書いてある別の本には......


昔の法吉村(全図)が載っていました。
昔の法吉小(旧法吉小)や村役場があった春日は法吉村の真ん中だったようです。
東は川津、持田の二村に接し、西北は生馬村、南は松江市に接し、また宍道湖に瀕せり。
ともあるように、昔の法吉村は今の法吉小の校区よりも広く、奥谷や国屋、末次も法吉村だったようです。
法吉村教育振興会の会則には、今は内中原小の校区の砂子、国屋、堂形の地区名もありました。
天倫寺の方も法吉村で、宍道湖にも面していたとはびっくりです。
他にも昔の法吉小(旧法吉小)や昔の法吉のことが書いてある本がたくさんありました。


昔の法吉小(旧法吉小)は、


明治時代から法吉村役場と同じ建物の中にあり、


火事の後に昭和23年に建てれられた校舎には、


昭和38年から昭和44年の閉校まで、


法吉幼稚園が同じ建物の中にあったことなども書いてありました。


これらのたくさんの本を読んで、昔の法吉小(旧法吉小)や昔の法吉について分かったことをまとめてみました。
旧法吉小及び法吉村について.pdfそして昔の法吉小(旧法吉小)は、昭和46年3月閉校式を行い、97年余の歴史に幕を閉じました。




調べた結果
①昔の法吉小(旧法吉小)は、昔の法吉村の真ん中の春日にあったことが分かりました。
②昔の法吉小(旧法吉小)も、今の法吉小と同じように昔の法吉村(法吉地区)の皆さんにたくさんお世話になって、たくさん応援してもらって、とっても大切にされていた学校だったことが分かりました。
豆知識(調べている途中で分かったこと)
その1
昔の法吉小(旧法吉小)の正式な名前が載っていました。
古い順に紹介します。
①第4大学区第18中学区第26番黒田小学校
M6.12.15~
※M12.4教育令により大中小学区制廃止、M19.4小学校令制定がありましたが、この頃の正式名称は不明です。
②島根県島根郡法吉村尋常小学校
M25.9.18~M29.3.31
③島根県八束郡法吉村尋常小学校
M29.4.1~M37.4.14
④島根県八束郡法吉村尋常高等小学校
M37.4.15~S16.3.31
⑤島根県八束郡法吉村国民学校
S16.4.1~S22.3.31
⑥島根県八束郡法吉村立法吉小学校
S22.4.1~S23.10.9
⑦島根県松江市立法吉小学校
S23.10.10~S44.3.31


そして北堀小と統合して島根県松江市立城北小学校となりましたが、統合後の2年間を、
⑧島根県松江市立城北小学校法吉校舎
S44.4.1~S46.3.31
と何回も変わってきたそうです。
統合前の法吉小学校平面図.pdfどの時代のどの名前の時でも、昔の法吉小(旧法吉小)は、法吉村(法吉地区)の皆さんにたくさんお世話になって、たくさん応援してもらって、とっても大切にされていた学校で、昔の法吉っ子も昔の法吉小(旧法吉小)でぼくたちと同じように元気に遊んでしっかりと勉強していたそうです。
一番短い期間の名前は、⑥の法吉村立法吉小学校です。
この名前では、入学式が2回、卒業式は1回しか行われていません。
その2
昔の法吉小(旧法吉小)の校章が載っていました。
古い順に紹介します。


1つ目は、一番古い校章のようですが、いつ作られていつまで使われていたかは分からないそうです。
稲穂が飾られ、上の方には勾玉で八束郡の「八」があり、真ん中には法吉の字があります。
八束郡の「八」があるということは、法吉村が島根郡から八束郡になった明治29年4月より後に作られたと思われます。
ちなみに明治42年頃、各学校で帽章(校章)が決まるようになったそうです。
2つ目には、三日月とウグイス、法吉の字があります。
三日月とウグイスがある理由は、次の3つ目が作られた時の理由と同じだそうです。




帽章バッジは、学校にて原案作成のと八束郡古江村在住の彫刻家山根八春氏の作成にかかるもので、三ヶ月は山中鹿之助公の古戦場にとむ校下ゆかりのもので、公の七転八起の建設精神は今日の新日本建設に必要なもので本校教育の基調となるもの
梅は鶯の宿で校下鶯谷に在住せし有名な碩学者雨森鶯谷(※雨森精翁の別号)先生の精神を象徴するものであるが、これは更に風土記抄にみえる神産巣日(かみむすび)の神の御子宇武賀比売の命法吉(ほうき)鳥(鶯)となりて飛び渡り現在の法吉の里に鎮まり座せる為法吉という故事によりて、鶯の宿は梅(梅はもともと法吉村章)なるにより、之を二つ表さるものにして、中央に浮ぶ「法」の字は、この鶯のホーホケキョのホーと法吉の法とかねたるものなり
【昭和28年度の開校80周年記念式典にて制定披露】
と初めに見せてもらった本に書いてありました。
そして今の校章は、


今の校章のデザインの理由は、法吉小のHPに書いてありました。
その3
昔の法吉小(旧法吉小)の校歌が載っていました。
古い順に紹介します。
①法吉村尋常高等小学校校歌(S12.6)が最初の校歌だそうです。
昭和の初め頃からS12にこの校歌ができるまでは、「山中(鹿之助(鹿介))幸盛の歌」が校歌の代わりとして歌われていたそうです。でも、「山中幸盛の歌」は応援歌として歌われていたという話もあって、本当のことは分からないそうです。
この最初の校歌にも山中鹿介の名前はありませんが、「三日月」「不撓不屈」など山中鹿介を連想させる言葉があります。
ちなみに大正15年頃、校歌を作る学校が増えてきたそうです。
②法吉村国民学校校歌(S16)
①と同じく山中鹿介を連想させる「三日月」「七難八苦」の言葉があります。
また、①も②も「勅語」「皇国」「國の力」「皇民」といった戦前、戦中という当時を反映する言葉も見られます。
③松江市立法吉小学校校歌(S29.1.23)
S22.4学制改革により法吉村立法吉小学校、S23.10松江市との合併により松江市立法吉小学校と学校の名前は変わっていきますが、戦後間もないこの頃は、校歌はなかったそうです。
S29.1開校80周年記念式典の挙行に併せて校章と一緒に制定されたそうです。
それぞれの歌詞、楽譜についてはこちらをご覧ください。
そして今のぼくたちの校歌は、
※上の写真をクリックすると、法吉っ子が歌う校歌を聞くことができます。
今の校歌が作られた願いや歌詞、楽譜は、法吉小のHPに書いてありました。
法吉小学校校歌 作詞者及び作曲者の言葉.pdfその4
昔の法吉村の地名の理由が載っていました。
法吉
風土記所載の法吉郷(ほほきのさと)の条に「神魂命の御子、宇武賀比売命、法吉鳥と化りて飛び渡り此処に静まり坐(ま)しき。故、法吉という」とあることによる。
春日
地内に在った春日神社による。
奥谷
S23.10に八束郡法吉村が松江市へ合併編入された結果、東奥谷町が新しく成立した。
既に松江市に奥谷町があったので東奥谷町の町名となった。
黒田
地内の土色が黒かったことによる。
末次
(地名の由来は不明ですが)もともと大橋川以北は末次村であったが、慶長12年に堀尾氏が開府すると、松江城中心の一帯が城下町となった。
それにつれて周辺部の水田地帯の飛地が末次村として残ったと思われる。
M22に一部が松江市へ編入され外中原町、中原町、北田町、南田町の一部となり、字向島は松江市大字末次(現在の末次町)となり、残余は法吉村大字末次となった。
即ちM22から松江市へ合併編入のS23までの間が法吉村の大字末次であったが、S23に一部が砂子町となり、残余は国屋、外中原町、西川津町の一部となった。
国屋
玖屋神社によるともいうが丘陵と谷の交錯する地形を表したらしく国谷とも書く。
比津
風土記所載の佐太水海の東端にあたり、地名は干上がった津、あるいは辺津の意であろうと解釈されている。
調べて思ったこと
その1
昔の法吉小(旧法吉小)も、今の法吉小と同じように昔の法吉村(法吉地区)の皆さんにたくさんお世話になって、たくさん応援してもらって、とっても大切にされていた学校だったことが分かったので、ぼくも今の法吉小や法吉地区、そして大きくなっても未来の法吉小や法吉地区を大切にしていきたいです。
その2
今年の夏も熱中症警戒アラートがいつも出ていたからできなかったけど、来年は法吉令和のまちあるきマップに載っていたコースを歩いて法吉のまちや歴史をもっと知りたいです。






参考にしたものの紹介
「法吉令和のまちあるきマップ」(法吉公民館)
「法吉わがとこ聞きある記」(法吉公民館)
「法吉の歴史あれこれ」(法吉公民館)
「法吉村誌」(内田映)
「松江の歴史年表」(島田成矩)
「企画展 みんなの小学校 150年のあゆみ」(松江歴史館)
「懐かしの木造校舎一挙公開」写真パネル(松江歴史館から贈)
「新修 松江市誌」(松江市誌編さん委員会)
「城北教育十年史」(松江市立城北小学校開校十周年記念事業実行委員会記念誌編纂委員会)
「城北教育二十年史」(松江市立城北小学校開校二十周年記念事業実行員会記念誌編集委員会)
「城北教育五十年史」(城北小学校開校50周年記念誌編集委員会)
「松江市立法吉小学校開校10周年記念誌 法吉のあゆみ」(松江市立法吉小学校開校10周年記念誌編集委員会)
「松江市立法吉小学校開校30周年記念誌 法吉のあゆみ」(法吉小学校創立30周年記念誌発行部)
「指導資料集 郷土法吉」(法吉小学校)
「法吉校誌抄」(旧法吉教育会)
「昭和貮拾壹年再編 沿革誌」(旧法吉小学校)
お礼を言います
先生と歴史館と法吉公民館の方、
そして今年はヒントはくれなかったけど、この研究をまとめるのを手伝ってくれた親戚のおばさん、
皆さんのおかげで昔の法吉小(旧法吉小)や昔の法吉のことをたくさん知ることができました。
ありがとうございました。
最後に






今の法吉小は昭和56年4月1日に開校したので、


今年(令和6年現在)43年が経っていますが、
昔の法吉小(旧法吉小)は......


明治6年12月15日に昔の法吉小(旧法吉小)の前身黒田小学校創立......
!!!
法吉の歴史から分かった!
実は昔の法吉小(旧法吉小)は......
昨年(令和5年)12月15日をもって、
創立150周年を迎えました!


これからも法吉のことをもっともっと知ってみんなに教えてあげたいです。

